日本人留学生第1号として知られているジョン万次郎って誰?その生涯とは

日本人留学生第一号は誰?

飛行機の登場、特にジャンボジェット機の発明により現在はチケットを購入し快適なシートに腰をかけて座っているだけで海外へ行けるというなんとも便利な時代になりましたが、かつては文字通り海外に行くためには船で海を超えて行かなくてはなりませんでした。それはたどり着くかわからない不安と隣り合わせであり、日本を出発する際にも相当な勇気が必要だったはずです。

本日紹介しますのはそんな時代の中、ひょんなことからアメリカへ行く果てになり、結果的に日本人留学生第一号としてその後の日本開国の際にも勢力を尽くし活躍した方の紹介です。

日本人留学生 ジョン・万次郎

1841年、マサチューセッツ州フェアヘイブンの捕鯨船長であるウィリアムホイットフィールドが、難破した日本の漁師である万次郎を無人島から救助しました。万次郎はホイットフィールド大尉に同行してマサチューセッツに戻り、そこで英語を学び、米国に住む最初の日本人となりました。

その後、日本が西洋に開かれた際には通訳および政府顧問としての地位を確立しました。何年にもわたって、二人の男の友情は決して揺らいでいませんでした。

Whitfield-Manjiro Friendship Societyは、日米文化交流と、Manjiroの物語を語るフェアヘイブンの歴史的建造物の保存を通じて、この名高い友情を祝い、継続しています。

https://whitfield-manjiro.org/

ジョン万次郎の生い立ち

万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁師の家に、2男3女の次男として生まれました。
天保12年(1841)1月、14歳になっていた万次郎は、沖に向かう鯵鯖漁の漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗船します。船頭の筆之丞、その弟の重助と五右衛門、そして寅右衛門の4人と出航したものの、強風にあおられ航行不能となり漂流。やがて伊豆諸島の無人島の一つ・鳥島に漂着し、わずかな水や食べ物で143日間をしのぎました。その後、島に立ち寄った米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、ウィリアム・ホイットフィールド船長の保護を受けました。

そこで約半年間の過酷な無人島生活を送り、143日後、海亀の卵を食料にするためにこの島にやってきたアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって発見され、助けられますが、ここから物語は思わぬ方向に展開していくのです。

当時の日本は鎖国の時代

当時の日本は鎖国の時代で、外国船は日本に近づくことさえ難しく、万次郎たちは日本に帰ることができませんでした。たとえ帰国したとしても、外国人と接触したということだけで命の保証もありません。 実際に、1837年に漂流者を助けて浦賀に入港しようとしたアメリカのモリソン号が撃退されるという事件があったばかりでした。
この船のウイリアム・H・ホイットフィールド船長(当時36歳)は、5人の漂流者たちを安全なハワイへと連れて行きました。

万次郎は一人アメリカへ渡る決意をする

万次郎はここで1人アメリカへ渡る決心をするのでした。万次郎の申し出を船長は快く了解し、仲間4人をハワイに残して帰途につきます。万次郎の鋭い観察力と前向きな行動力は船長らに認められ、早速、ジョン・ハウランド号からとった「ジョン・マン」という愛称をつけられました。
1843年、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港。万次郎は日本人として初めてアメリカ本土の土を踏んだのでした。

日本人留学生第一号になる

救出から2年後、捕鯨航海を終えたジョン・ハウランド号はアメリカ最大の捕鯨拠点であるマサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港します。万次郎は日本人として初めてアメリカ本土に立ち、ホイットフィールドの故郷フェアヘーブンで養子のように一緒に暮らしました。また日本人留学生第1号としてオックスフォード・スクールで小学生とともに英語を学び、その後はバートレット・アカデミーで数学、測量、航海術、造船技術などを学びます。寝る間も惜しんで努力した甲斐があり、万次郎は首席にまで上り詰めました。

日本帰国後

海外への渡航が厳しく禁じられていた江戸時代末期、漂流してアメリカに渡り、その後日本に帰国を果たしたジョン・万次郎ですが、アメリカで英語を学んだ彼は、明治時代に突入したあとも通訳や教師として活躍しました。ペリー来航時にはアメリカの知識を必要とした幕府から江戸に呼ばれ、直参旗本の身分と故郷からとった苗字を得て、中浜万次郎(中濱万次郎)と名乗るようになります。こうして異例の出世を果たした万次郎でした万次郎は翻訳、造船、航海、測量などの仕事をしていましたが、万延元年(1860)「日米修好通商条約」批准のための遣米使節団に抜擢され「咸臨丸」に乗船します。船上には勝海舟や福沢諭吉の姿もありました。航海中は船酔いがひどかった船長・勝に代わって船内をサポートし、サンフランシスコ到着後は通訳として活躍。帰国時には福沢とウェブスターの英語辞書を購入して持ち帰ったという逸話も残されています。

国際社会になった今、比較的簡単に英語を勉強することのできるようになった我々は現在の日本の礎を築いてくださった先人の想いを忘れずにずっと先まで繋いでいかなければならないということを忘れてはいけないのかもしれませんね。

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